作・冬寂ましろ

ぜんぜん頭に入らない数学の授業を終えて、次は英語の退屈なヒアリングというとき、僕は中学生活最大のピンチを迎えていた。

「なんでチサトの胸をずっと見てたのか聞いてんだよ! 返事しろよ、このキモクズ!」

怒り狂っているキザキを僕は恐怖で見つめていた。  喧嘩ばかりしているキザキにからまられるのは、誰でも避けようとしていた。だから、こうして耳をビリビリとさせる怒鳴り声が響いても、みんなは視線をこちらに向けるだけで、動こうとしなかった。

「授業中、ずっと見てただろ。わかってんだぞ! 無視すんな!」

怒鳴られて固まっていた僕を、キザキは平手で叩いた。そのまま大きな音をたてて、椅子ごと冷たい床に倒れた。  キザキが近づいてくる。また殴られるかと思って、とっさに顔を腕で隠す。

椅子を引く音がした。次は椅子で叩かれるかもしれない。恐る恐る見ると、隣の席にいたチサトさんが立ち上がり、キザキへ困ったように声をあげていた。

「ちょっと、止めなよ。もういいって……」  「ダメだろ。チサトは甘すぎだよ」  「いいからさ……」

キザキが僕の足を思い切り蹴る。鋭い痛みが僕の体を小さくさせる。

「なんか言えよ。これじゃ私が悪者かよ」

言ったらまた蹴られる。言わなくても蹴られる。  僕はどうしたらいいのかわからなくなって、頭のなかをぐるぐるとさせる。

「なんか言えって! キモ男!」  「その……」  「なんでチサトの胸を見てたかって、こっちは聞いてんだよ。答えろよ」

僕はどうか聞こえないようにと祈りながらつぶやいた。

「おっぱいに触りたかったから……」

キザキから変な叫びが出た。獣がうなるような、気が狂った人の声のような。  キザキが馬乗りになる。力いっぱい僕の顔を殴る。目に電気が走る。何度も……。

「もう止めて」

チサトさんがキザキを抑えようと肩をつかむ。けれど、キザキはそれを振り払って、僕を殴り続けた。

教室の引き戸を引くガラガラという音が、殴られる合間に聞こえた。

「おい、何してんだ、お前ら!」

英語のワタベ先生の低い声がした。  ふうふうと息を切らせながら、キザキがゆっくりと僕から離れていく。  それから先生の方に向くと、正しい声で正しく言った。

「私は間違っていません。チサトを変な目で見るこのクソキモが悪いんです」  「だからといって暴力はよくないだろ?」  「殴らないとわかりませんよ、こんな変態。いまのうちに叩き直すのがこいつのためです」

先生は少し黙ったあと、倒れたままでいた僕へ励ますように声をかける。

「アヤサキ、お前男だろ。女のキザキに殴られて恥ずかしくないのか?」

誰かがくすりと笑った。

僕は、この世界から消えてしまいたくなった。  早く消えたい。一刻も早く……。

ふいにチサトさんが手を上げる。

「先生。アヤサキ君を保健室に連れて行きたいんですが……」

キザキが「はあ?」と声をあげる。それを無視するように先生は言う。

「ああ、いいぞ。ぶーぶー言うなキザキ。お前はちゃんと授業受けろ。これでこの件はおしまいだ。ほら、席に着け」

チサトさんが僕の腕をつかむと、ゆっくりと引き起こしてくれた。

「いこ」

椅子を戻しながら、彼女は僕を見ずに短くそう言った。

少し暑い春の陽射しを浴びながら廊下を歩いていく。光が僕らの影を作る。動くそれを僕は見ていた。  僕の体とチサトさんの体は似ている。身長もそう変わらない。変わらないのに……。

前を歩くチサトさんが僕のほうへ振り向いた。

「ごめん。キザキは悪い奴じゃなくてさ。ええと……。あんまりおおごとにしてもらわないでくれる?」

チサトさんは僕より友達を助けたいだけだった。急に泥の中を泳いでいるような気分になる。

僕は「うん……」と言うのが精一杯だった。

保健室の扉をチサトさんが開ける。ふわりと消毒液の少し甘い匂いが流れてきた。

「あれ、先生いないや。中に入って待ってなよ」

チサトさんはもう役目は終えたのだろう。帰ろうとしていた。  僕はあわててお願いをした。

「……ごめん。教室からかばんを持ってきてくれる?」  「いいけど。でもさ、さっきのこと、誰にも言わないでね」  「うん」

チサトさんの長い髪がひるがえる。僕はそれをうつむいたまま見送った。

しばらくしてチサトさんは「はい」とベットに座っていた僕にかばんを渡した。僕は「ありがと」とだけつぶやいてかばんを握り締める。ガラガラと戸が閉まる音がしてもそのままでいた。

それから僕は誰にも言わず、学校を出た。

ふらふらと街の中を歩く。川沿いの桜並木はすっかり花を散らし、薄い緑の芽を開かせていた。今日は陽射しが厚く、通り過ぎる人も薄着が目立つ。  女の人とすれ違う。胸にどうしても目が行ってしまう。

どんな形をしているのだろう。  どんな触りごごちをしているのだろう。  どんな……。

僕はそれを知りたかった。でも、きっと誰も教えてくれない。  じろじろ見ていた僕を怪訝そうににらみつけて、Tシャツに胸の形がくっきりとわかる女の人が過ぎ去った。

通販の品物を郵便局留めにして買えることに気がついたのは、ほんの1か月前だった。僕はどきどきしながらそれをした。今日届くとメールが来ていて、どのみち学校を早く抜け出すつもりでいた。  商店街の中にある小さな郵便局で恐々と荷物を受けると、僕はそれをしっかりと抱きしめて街を駆けていった。  今日は夜勤で母の帰りは遅い。今日を逃すと次がいつにならないかわからない。  僕は古いマンションの古い鉄の扉をゆっくりと開ける。誰もいないことに安心する。暗い部屋を歩く。自分の身長ぐらいある姿見を母の部屋から居間の真ん中に置く。

急がなきゃ……。

僕は学生服を脱ぎ始めた。震える指先で学ランのボタンを外していく。それを脱ぎ捨てると床から重い音がした。焦る心を抑えながらワイシャツを脱いでいく。中の少し汗ばんだシャツをえいっと脱ぐと、鏡に貧相な僕の体が映し出された。

少し屈んで、そばに置いといた包みを開ける。  中にあったピンク色の袋も開ける。  入っていったものを取り出す。

小さなブラ。  それは薄い水色で、レースでできた花が覆っている。かわいいなって僕は思った。

肩紐のアジャスターを少し伸ばして、腕に通す。  無い胸を寄せるようにして、カップをかぶせる。  後ろに手を回して、少し苦労しながらフックをかける。

できた……。

下を見る。ブラと胸の間がすかすかしていた。  僕はなんだか馬鹿らしくなって思わず笑ってしまった。  かばんにあったハンカチを詰めて、少しでも膨らませる。

それから脱ぎ捨てたワイシャツをもう一度着た。

姿見に自分の姿を映し出す。  胸のラインがしっかりと出ていた。  ボタンをはめていないから、ちらちらと白い布地の間からブラが見える。女の人もこうなるのかな……。

ブラをワイシャツ越しに両手で抱える。  じんわりとした安心感がある。なんだか泣きそうになる。  本来あったものがあるように思う。失くしたものがここにある感じがする。

なんでそう思うのだろう……。  自分でも良くわからない。  よくわからなすぎて死にそうになる。

顔を上げた。

殴られて腫れた顔が鏡に映る。  男の顔。  男の肩。  男の指先。

気持ち悪い……。

その想いは日々重なるように募っていた。

いまこの場にピストルがあれば、僕は躊躇なく引き金を引くだろう。  いまこの場に縄があれば、僕は躊躇なく首を吊るだろう。

こんな変態……。

「早く消えてなくなりたい……」

僕は鏡に映る自分をにらみつけながら、そう静かにつぶやいた。

次の日、学校に行くとキザキがいなかった。  一限目の授業を終えても来なかったので、思わずチサトさんの顔を見ると、少しだるそうに教えてくれた。

「自分で親に言っちゃったぽくてさ。ほとぼり冷めるまで休むって。ほら、キザキの家って、なんとかの議員やってて。だから厳しくて」

何かが抜けるようにチサトさんがため息をつく。

「正義マンにも困るね。いい奴なんだけどな」

そう言うと何か面白いものを見つけたように僕へたずねた。

「ねえ、昼にちょっと屋上行かない? アヤサキ君とちょっと話したいんだ」  「……鍵は? だって先生が……」

ブレザーのポケットに手をつっこむと、そこから銀色に輝く鍵を取り出した。チサトさんはそれをつまんで僕へと見せつける。

「たまにキザキと行ってるから」

いたずらっ子のように、僕へ笑った。

屋上にはおだやかな風が吹いていた。陽射しは熱く感じるけれど、風がそれを追い出していた。  少し熱を帯びたコンクリの床をチサトさんが歩いていく。

「あんまりフェンスのほうに行かないでね。下から見つかるから」

僕はそれにうなづいて、後を追いかけるように歩いていく。

真ん中ぐらいにたどりつくと、チサトさんは髪を押さえながら僕へ振り向いた。

「でさ。アヤサキ君は女の子なの?」

え……。

「昨日は、あのまま教室にいられなくてさ。みんななんか言いたそうだったし。そのままお腹痛いって嘘ついて帰ったら、アヤサキ君が郵便局から出てくるの見ちゃった」

僕は答えに困った。

「持ってたあの袋、下着通販とこのだよね。私も買ってるんだ。だから中身が何かはわかって……」

答えないといけなかった。でも、僕は言葉をうまく選べないまま叫んだ。

「僕は! 僕は……。ただの変態だから……」

もうだめなのだろう。  横を振り向いてフェンスを見る。登れるだろうか。それとも駅から……。

「待って」

チサトさんはあわてて僕に駆け寄り、避けようとした腕をつかんだ。

「変態じゃないよ。あんなに大事そうに抱えていたし」  「でも……」  「下着を悪いことに使う人がいるのもわかってる。でも、アヤサキ君は違うと思う」

チサトさんが僕にやさしく触れる。片方の手で握り、片方の手で撫でる。僕を安心させるように、何度も……。

「おっぱいってさ。大きいのとか、小さいのとか。いろんな形があるよ。アヤサキ君は見たことある?」  「あまり……」  「私のも最近大きくなってきちゃって。お母さんも大きいほうだから、遺伝したのかな」  「その……」  「いつも胸を見られているよ。視線が下がるの、まるわかり。でもさ。それにふふんって思うんだ。なんていうの。ちょっと誇らしげ? 優越感? ほら、私もきっと変態なんだよ」  「えっと……」

チサトさんが僕の手を両手で包むように握りしめる。

「おっぱい、好き?」

僕はうつむく。

「ねえ、触ってどうしたいの?」

チサトさんが僕をのぞき込むように言う。

「正直に言いなよ」

僕は言えなかった。  でも、言わないと、この手を離してもらえそうになかった。だから、言うしかなかった。

「……どんな感触なのか、本物に触りたかった。僕にはないものだから……」

チサトさんは、それを聞くとにんまりと笑った。  その顔はとても女の子だった。

「触りたい?」  「……うん」

どうにか出せた言葉にチサトさんは、くすくすと笑う。

「もう。男のくせに、はにかむのって、なんかかわいいな」

右手をつかまれる。

「ほら」

彼女の胸に当てられる。

「どう?」

手を引っ込めようとしたけれど、なぜだかできなかった。  指先をかすかに押し下げる。  それはすこしごわっとしていた。何か厚いものがある感触がした。

「……固い」  「ブラ越しだもん。そんなものだよ」

チサトさんは、上から自分の手を重ねて、僕の手にぐにぐにと胸を揉ませる。

「こんなのは、ただの脂肪の塊だよ。詰まっているのは夢じゃない。おっぱいに幻想見るな。そういうこと」

彼女はやさしく笑いかけた。  それはなんだかとても僕を安心させた。

「アヤサキ君は学校に来てね。そうじゃないと寂しいし」

彼女はそう言うと、僕の手を引いて歩き出す。  とても楽しそうだった。すごく嬉しそうだった。  ふたりだけの秘密を共有したのだから、きっとそのことがチサトさんの心を楽しくさせたのだろう。  それはさっき言ってた優越感かもしれない。もしかしたら好意とも言えるかもしれない。

僕はそれにとまどった。僕は女の子になりたかったから。

次の日から学校に行けなくなった。  学生服の詰襟、馴染めない人の輪、理解されない想い。そしてチサトさんに思う罪悪感……。

もういろいろ無理だった。

母は先生たちと話したり、カウンセラーに会ったり、あれこれ手を尽くしたけれど、結局さじを投げた。

助けてくれたのは僕よりずっと大人の人達だった。  僕と同じ胸がないことにとまどっていた人、それでも生きていくことを選択した人。そのことをそっと見守っている人たち。

僕はそうして、いろいろなものから離れていった。

いま、僕の胸にはおっぱいがある。少し乳房が離れていて、乳首の形も違うけど、一応Eカップはある。  たゆんたゆんと揺れないし、何かを挟むこともできない。  それでも胸に感じる重さに、僕は普通を感じる。いつまで経ってもそれが自然にしか思えない。  気が狂ってると人が思っても、僕はこれが好きだ。僕のたいせつな一部分だ。

ブラ越しに胸を触る。固いしっかりとした感触がした。あの日と同じように手先が感じる。

思い出すことを、チサトさんは許してくれるだろうか。  あの少し暑かった日を。  あの感触を。  あのどうにもならない想いを。

僕は自分の胸を抱きながら、ずっとあの日に謝り続けている。

※初出: カクヨム 2023年3月11日