作・冬寂ましろ

その日は梅雨入りしたと朝のテレビが告げていた。登校中に少し濡れてしまった袖を気にしながら、背負っていたランドセルを自分の机に下ろす。  前の席に座ってた田村さんがポニーテールを揺らしながら振り向いた。

「有賀君おはよ」  「うん、おはよ」

田村さんが「あれ見て」と指差す。その先にはバカばっかりやってる大西とその友達が騒いでいた。SSRとか言い合ってる。

「職員室に入る転校生を大西が見たんだって。その子、女の子だったみたい」  「それでレア度付けてるの?」  「そ。男子キモいね」

笑いながらそう言った田村さんに僕はうなずく。あ。違う違う。僕も男なのに。「ヒジって10回言って。ここは?」と聞かれたら「ヒジ」って言った人を見たように、田村さんはにまにまと笑った。

「さすが有賀君。私よりまつ毛が長いだけはある」  「なにそれ。わかんないよ」

予鈴が鳴った。ガラガラという教室の戸が開く音がした。う、早い。急いでランドセルを机の横にかける。  いかにも好青年ってお母さん達に言われている長谷部先生が教室へ入ってきた。その後ろにはひとりの女の子がついてきた。  ペンギン?  その子は袖が黒でお腹のあたりが白い、たぷんとしたパーカーを着ていた。大きな黒いフードをしっかりかぶり、亜麻色の髪がそこからはみ出ている。確かにSSRかもしれない。教壇の前に立つと、長谷部先生が大きな声を上げた。

「おはよう。今日は転校生を紹介するよ。さあ、仲野さん。自己紹介してね」

先生にうながされて、その子は一歩前に出た。  そして体を震わせた。  濡れた犬がそうするみたく、ぶるぶると。  大惨事になった。  たくさんの水しぶきが降りかかり、前の席にいた人たちへ降り注いだ。真ん中にいた大西は一番の被害者になった。ぎゃという悲鳴を上げ、派手な音を立てて椅子から転げ落ちた。  教室が騒然としているなか、その子は拳を天に突き上げた。

「ペン子ですっ! ペンギンですっ!! むいむいっ!!!」

ペンギン?  人……だよね?  呆然としていた長谷部先生がようやく事態の収拾に乗り出した。

「ほら、仲野さん。自分の名前があるでしょ? 仲野智子って、言ってごらん」  「私はペン子! ペン子だから!」

何度も先生に言われても自分のことを仲野智子とは言わなかった。ついに根負けした先生に僕は少し同情した。

「じゃ、ペン子……じゃない、智子さん。有賀君の隣の……、そう、後ろの空いている机に座って」

ペン子が僕のほうに向かって歩き出した。水を滴らせながらぺたりぺたりと、体を左右に揺らせながら。それは、ついさっき海から上がってきたペンギンのように思えた。  不思議な子だな……。  ぼんやりと見つめていたら、目が合った。大きな瞳で僕を見つめ返す。それから微笑んだ。まるで遠い世界で同じ国の人と出会ったように笑っていた。

休み時間になっても、誰もペン子に近づかなかった。最初の一撃があれだしね……。隣の席をうーんと思いながら見つめていたら、田村さんから声をかけられた。

「なんとかしてよ、生き物係」  「え、僕?」  「そ。ペンギンらしいし」

ペンギンという言葉に反応したのか、ペン子が僕らに声をあげる。

「ペンギン、好き?」  「うん……まあ……」

田村さんがほら、ほら、と僕をつつく。何を聞いたらいいんだろ……。ええと……。

「僕は有賀祐一って言うんだけど……。ペン子ちゃんって呼べばいいのかな?」  「うん、いいよ!」  「ありがとう。どこから来たの?」  「南極!」  「家はどこ?」  「氷の上!」  「どうして転校してきたの?」  「わかんない。ペン子はペンギンだから、人のことはわからないよ」

僕と田村さんは顔を見合わせる。  これは……。もしかしたらものすごい問題児で、いままでいた学校を追い出されたとかじゃ……。田村さんは「人間なのに」って、ぽつりとつぶやいた。

実際、ペン子は人間なのだと思った。給食のときは魚しか食べないのかなと横から見ていたら、普通にご飯をぱくぱく食べてたし。ペン子がおかわりしに行くと、大西が立ち上がって声をかけた。

「俺は知っている。さっきの礼をする必要がある」

大西がいきなりペン子の腕を取って引っ張った。お盆が手から離れ、空の食器がカラカラと派手な音を立てて、教室の床に転がった。  ペン子は素早かった。大西の腕をつかみ返すと、そのままひねった。たまらず体をねじり、大西の体はどしんと倒れた。

「サブミッションか!」  「あはは。ペンギンは強いんだ。シャチにだって勝てる!」

ペン子は勝ち誇ってそう言う。男子達はそんなペン子に「おお……」とどよめく。

「シャチにキメられる関節があるのかよ」  「そんなの藤原にもできないぞ」  「それならザックセイバーJrだろ」  「何年前の話だよ。せめて三浦彩佳とか出せよ」

男子達の話はさっぱりわからない。僕は仕方なしに転がった食器を田村さんといっしょに片づけ始めた。

下駄箱が並ぶ玄関から、暗くなっていく雨空を見上げていた。今日はいろいろありすぎた。つい、ため息が出る。どうしてあげたらいいんだろ……。

「有賀君はもう帰るの?」

振り向くと田村さんがいた。

「うん。今日は飼育小屋の掃除もないし」  「だってさ」

田村さんの友達が何人もわっとそばに来た。学年一の才女と呼ばれる井上さんまでいる。

「え、なに?」  「ペン子ちゃん、どうしようかなって、みんなと相談してたんだ」  「どうするもなにも……」  「ほら、5年2組のモットーは?」  「みんな仲良く」  「だから作戦会議しないと。このあとみんなで有賀君の家に行ってもいい?」  「え……。今日はお母さん居ないよ」  「いいよ。シロを触りたいし。それにほら。有賀君は生き物係なんだし」  「またそれ? まあ……いいけど……」  「やった。みんな行けるって」

みんなの顔が明るくなる。咲いた紫陽花の花と同じように、僕たちは雨の中で傘を差した。

🐧🐧🐧

女子達は部屋に置いてあるぬいぐるみを触っていた。井上さんがメンダコのぬいぐるみを撫でながら僕にたずねる。

「何匹いるの、ここ」  「数えたことないけど……」

井上さんがため息をつく。「男の子の気持ちはわからないな」とつぶやく。それから猫動画の話とか、差し障りのない話をみんなと始めた。  シロがやってきた。みんながきゃーって言う。座ってた田村さんに頭をこすりつけゴロゴロと喉を鳴らしていた。

「さて、ペン子ちゃんをどうしよ?」

田村さんの声に、みんなが弾かれたように言い出す。「あんなの普通じゃない」、「男子と悪ノリされると困る」、「話が通じない」と文句を言い合う。田村さんはシロをマフィアの親分のように撫でながら恐ろしいことを言う。

「なら、こっちも話さないようにするしかないかな……」  「え、えと……。話し通じないのは困るけど、何か理由があるかもしれないし。もう少し、様子を見ようよ」  「優しいな、有賀君は。でもね、合唱大会がある。あと1か月しかない。長谷部先生が勝ちに行くと言ってたから、ペン子ちゃんもちゃんと歌ってもらわないと困る」

ペンギンは歌を歌えるのかな……。田村さんが僕に指を突きつける。

「生き物係の責任として、ペン子ちゃんに歌わせなさいよ」

🐧🐧🐧

飼育小屋のニワトリを撫でながら考える。ほわほわとした温かさを感じながら、どうしたものかと思案する。

「まあ、わかんないことは調べるしかないよね……。お母さんも観察がたいせつだって言ってたし……あ、こら。つつかないでよ。こら、もう……」

ニワトリたちにご飯をあげたあと、僕はすぐ図書室に向かった。動物図鑑を本棚から取り出すと、机に広げて読み始めた。

ペンギンは19種類。赤道から南極にかけて暮らしている。クレイシュという雛と親鳥を集めた群れを作る。卵は凍えないように親鳥が孵るまで足元で温める。ほかの親鳥はその間、餌を取りに海へ……。

うーん。  ペン子がよく言ってるむいむいって何? 書いてないんだけど……。  僕は軽く絶望したあと、けほんと咳をした。

放課後、誰もいない教室でペン子を引き留めて、合唱大会のことを話した。クラス対抗で競い合い、毎年長谷部先生が受け持つクラスが勝っている。勝つとクラス全員にお菓子が配られる。みんなそれを楽しみにしている……。

ペン子が「むいむい?」と不思議そうに僕を見つめる。うーん……。僕は軽く課題曲を歌ってみた。青い空を讃えるような曲。みんなから褒められたソプラノの声で、青い空が広がっていく様子を込めて僕は歌った。  気が付くと、ペン子は目を丸くして僕を見つめていた。

「これ歌えそう?」  「うん。うんうん。すごいね。きれいな声。有賀君といっしょなら歌う!」

すぐにペン子は同じように歌った。ひどい。音程も違うし……。でも、一生懸命歌ってる。これならなんとかなるかな……。  それから全体練習の前に、僕たちだけで歌の練習を始めた。ペン子はがんばって、少しずつうまくなっていった。

次に女子達へ、ペン子を混ぜてもらえるようにお願いした。合唱だからどうしてもいっしょに練習することになる。女子達の輪に入って、仲良くしてもらったほうがいい。  でも、これは難しかった。  習字ではペンギンの絵を描くし、理科の時間はペンギン講座独演会をする。そんな子とどう付き合えばいいんだと僕が怒られた。  それでも田村さんだけは「仕方ないわね」と笑って許してくれた。女子たちにまあまあと言ってくれて、ペン子と遊ぶようにしてくれた。3人でいっしょに帰る日も増えていった。  そして事件が起きた。

🐧🐧🐧

昼休みになると、井上さんと大西が言い争っていた。田村さんから聞いた話を要約すると、井上さんが大西に好きだと告白したのを大西が友達に言いふらし、それを聞いた井上さんが怒ったらしい。よせばいいのに大西は芝居がかった様子で井上さんを挑発しだした。

「俺は知っている。井上さんは頭がおかしい。俺のことが好きだなんて異常だ。なにしろ名前がそう読める」  「井はせいとも読める。だから私は正常なの!」  「読めないよ。俺は知らないし」  「なんでそんなこと言うの!」

大西がにやりと笑った。

「ペン子に聞いたんだ」

え、嘘?  みんなが教室の後ろにいたペン子へ一斉に振り返る。

「むいむい? 私はペンギンだからわからないよ」

ペン子が首をかしげる。絶望した井上さんが叫んだ。

「ペン子のバカ!」

井上さんが教室から走って出て行ってしまった。田村さんが追いかけていく。

その日は僕たちふたりで夏の夕暮れの中を帰っていた。僕は心配だった。ペン子の足音が泣いているように聞こえたから。

「ペン子、大丈夫?」  「うん。こんなときは、お父さんを思い出す」  「お父さん?」  「ペンギンは、お父さんに卵を抱えられて産まれてくるんだ。ペン子もそうだった。お母さんは温めてくれなかったよ」  「そっか……」

ペン子の頭をかしかしと撫でてあげた。それはお母さんに教わった涙を流せない動物と仲良くする方法だった。ペン子はパーカーのフードを下ろすと「もっとやってくれ」とねだった。さらさらとした亜麻色の髪を撫でてあげる。うにゅっとした顔をしていると思ったら、急にペン子が走り出した。それから少し赤い顔を僕に向けて叫んだ。

「いつかお前の卵を産んでやる!」

ペン子は嬉しそうに笑っていた。

🐧🐧🐧

僕の声がおかしいと最初に気づいたのは、田村さんだった。音楽室で合唱の練習をしているとき、肘で腕をつつかれた。

「風邪? 有賀君の声、ガラガラだよ」  「うん、少し痛いけど……大丈夫だよ」  「長谷部先生、ちょっと」

そばに来た先生が僕に声を出させる。

「有賀君は声変わりだね。このままだと喉を傷めるから、ソプラノから外すね」

ここは僕の場所なのに……。最初に思ったのはそれだった。  動けずにいたら、田村さんからこう言われた。

「だって有賀君は男だし。早く行きなよ」

その言葉は僕を見捨てたように聞こえた。

合唱大会、当日。  声がうまく出せなくなった僕は、先生に言われて裏方に回ることになった。幕をタイミングよく開けたり、照明のスイッチを押したり。ただそれだけの作業だった。  そしてペン子もここにいた。

「ペン子、どうしたの?」  「みんながペン子といっしょじゃ歌わないって先生に言った」  「え?」  「井上さんに謝れって言われたけれど、ペン子にはわからないや。むいむい」  「そんな……」

何をしてきたんだ僕は……。

「有賀君、元気ないね」  「なんで変わっちゃうんだろ。自分も、みんなも……。嫌だな……」

ペン子が素早く僕の脇をつついた。手で防御してもそれをすり抜けてつつかれる。

「ちょ、止めてよ」  「笑わないなら笑わしてやる。こうだ」  「にゃっ!」  「あはは、変な声出た」  「ちが……。もう、反撃するよ」  「いいよ、かかってこい! ペンギンの意地を見せてやる!」

舞台袖でふざけあっていたら、長谷部先生が駆け込んできた。叱られた。しゅんとなる。でも、まあ、いいかと僕とペン子は笑い合った。

🐧🐧🐧

合唱大会の結果は散々だった。長谷部先生はへそを曲げるし、男子達は「まじめにやったのにこれかよ」、女子達からは「そっちこそちゃんと練習しなかったくせに」と、お互いずっと文句を言っていた。  ペン子とふざけていたのは、合唱中にも聞こえていたらしい。あれからずっとみんなに冷たくされている。

ペン子は気にしなかった。「ここの空は窮屈だ」と言って、よく僕を連れ出してくれた。そして笑うまでつつくのを止めない。ひどい。でも、僕はそんなペン子と過ごす日々が楽しかった。

もう少ししたら夏休みを迎える。それでクラスの雰囲気が変わればいいなって思っていたときだった。放課後の誰もいない廊下で大西に呼び止められた。

「俺は知っている。すべての元凶はお前たちだと」  「え?」

腕を引かれた。足払いをされる。廊下に倒されると、ペン子がやってたみたく腕をひねられた。その場で転がされて仰向けにされる。馬乗りになった大西が、僕を泣きそうな顔で見つめていた。    「なんで、お前ばっかり女子と仲良くできるんだよ。お前んちに女子がぞろぞろ行くの見たんだぞ」  「え?」  「ペン子だってそうだ。ああすれば寂しくなったペン子が俺を頼るはずだったんだ」

顔を殴られた。目がチカってした。火花って本当に出るんだなと思った。

🐧🐧🐧

水族館の当直明けで朝早く帰ってきたお母さんが、「ぎゃっ」という声をあげた。

「目の周り。紫色に腫れてる。何があったの? 正直に言ってごらん」  「ええと……、なんでもない」  「正直に言いなさい!」

普段はやさしいお母さんが怒っていた。僕は怖くなって、これまでのことを泣きながら話した。そのあとお母さんは、あちこちに電話をしまくった。怒鳴り声が部屋の向こうから聞こえる。僕はそれに怯えた。  やがて戻ってきたお母さんが、僕を残念そうに見つめた。

「男の子と喧嘩した理由。お母さんが居ない間に、女の子を家へ連れて来たんだって?」  「それは……。ちゃんとお母さんに言ったよ」  「もうしないの。あなたは男の子なんだから」

お母さんが僕を抱きしめた。それが苦しかった。

夜になって家に来た長谷部先生に、お母さんは怒鳴りつけていた。  親たちが集められた。大人たちの言い争う声が聞こえる。  仲の良かった5年2組のみんながいがみ合う。  どうしたらいいんだろう……。  ああ、そっか。  僕が学校に行かなければいい。  そうすれば、みんな元のやさしい人たちに戻れる。こんな声を聞かずに済む。  そうだ。こんな自分さえいなければ……みんな仲良くなれる。

🐧🐧🐧

家のピンポンが鳴っていた。無視する。そうしたら何度もしつこく鳴らされた。そっと玄関の扉を開ける。

「むいむい!」

そこにはいつもと変わらないパーカー姿のペン子がいた。あれ、でも……。

「え? まだお昼前だよ? 学校はどうしたの?」  「サボった。なんか話そうよ。話したくて口がうずうずしてる」

僕はあわてて着替えて、ふたりで近くの公園に行った。ペン子と初めて会った日と同じ、紫陽花が広げた傘のように咲いていた。  自販機でジュースを買って、ベンチにふたりで座る。それからペン子はずっとくだらない話を僕にしてくれた。

「そのときね、にょーんって言うの。にょーんって」  「あはは、なにそれ」

学校でこういう話たくさんしてたっけ。なんだかもう……懐かしいな。もうみんな6年生になっている。だけど僕はずっと家にいた。  ふいにペン子が僕をのぞき込んだ。

「変わっていくの、嫌?」

すぐに言葉が出なかった。ペン子は覚えていたんだ。  僕の頬をペン子がつまむ。むにむにとされる。「嫌なの?」と聞かれる。答えないでいると、さらにむにむにとされる。うう……。仕方なく僕は自分の心の中を打ち明けた。

「うん……。なんか気持ち悪い」  「自分が?」  「みんなも気持ち悪い」  「私は?」  「ペン子は違うけど……」  「そっか。嬉しい」

ペン子が自分の袖をさっとめくった。手首から下には、白い肌の上に灰色の小さな羽がまばらに生えていた。僕はびっくりして声をあげる。

「どうしたの?」  「どうなるんだろうと毎日思ってる。でも、ペンギンは空が飛べなかったら海を泳ぐんだ。そこがペンギンにとっての空だ。だからペンギンは空を飛べる」

僕の手を握る。それからペン子が真剣な顔で僕をのぞきこんだ。

「有賀君の空は何だい?」

まっすぐな目が僕を見つめている。きっとペン子は、心の底から僕を知りたがってる。だから、僕は自分の気持ちを素直に伝えた。

「仲良かった女子の輪に戻りたい」  「戻ればいいじゃん」  「戻れないよ。僕は男だから」  「なら、女になっちゃえば」  「はあ? バカ。できないよ、そんなの。それこそ気持ち悪いよ……」  「有賀君。輪に戻れないときは誰にもやってくる。それは巣立ちのときなんだ」

ペン子は持ってた手提げ袋から何かを取り出した。それを僕へそっと手渡す。  卵だ。  白いすべすべとした卵が、僕の手のひらの中にあった。

「大事な人が見つかったら、私の卵を渡すようにお父さんに言われてた」  「え……? これペン子の卵なの?」  「そうだよ。あんまりそんな目で見るなよ、えっちぃな」  「ち、ちが……。でも……」  「ほら、ちゃんと持って」

卵を持つ僕の手を、ペン子の手が包んだ。  白い光があふれた。卵からたくさんの光があふれ出した。  まぶしい。目を瞑っても光が襲う。我慢する。卵を落とさないようにふたりでだいじに卵をつかむ。  急にあたりが暗くなった。恐る恐る目を開ける。

白い氷の氷原が真っ青な空の下に広がっていた。  僕達は南極にいた。だって、ほら。そこにペンギンがいるから。  ペンギンの足元で「むいむい」という小さな声が聞こえた。卵の殻を破った雛が、産まれて初めて話した言葉だった。  吹雪に耐えているときの言葉。  海を力強く渡るときの言葉。  仲間たちの輪から離れる2羽のペンギンの言葉。  ペンギンたちはずっとむいむいと言っている。がんばれ、がんばれ、って言っている。

気がつくと、いままでいた公園に立っていた。  僕とペン子がお互いの顔を見る。それから、ふたりで笑い合った。

「雛が孵ったら会いに行く。絶対だから。そのとき、有賀君はきっと死にかけている。だから栄養たっぷりのごはんを持っていくよ」  「ひどい。死にかける前に会いに来てよ」  「あはは。そうだね」

ふいにペン子が僕を抱きしめた。僕は卵を片手でしっかり持ち、ペン子を抱き締め返した。ペンギンたちが抱き合ったときのように手をパタパタとさせた。

「むいむい!」  「むいむい!」

お互いを励ますようにそう言うと、僕たちは別れた。  それから僕は部屋に引きこもった。

🐧🐧🐧

むいむい。むいむい。布団の中でシロを抱えながらずっとそう言っていた。

――お医者さん行こうよ。お母さんはもう疲れちゃった。  むいむい。  ――典型例ですね……。二次性徴のトラブルはよくあるエピソードです  むいむい。  ――高認取ろうね。動物のお医者さんになりたいんでしょ? がんばれる?  むいむい。  ――くすくす。なに、あの子の恰好。そういう人?  むいむい  ――専門学校だけどごめんね。お母さんお金なくて……。でも看護師になれるって。良かったじゃない。  むいむい。  ――着てるの女物だろ? 違和感なさ過ぎてつまらないよ。  むいむい。  ――女として育っていないぶんだけ、君は女の常識を知らないんだよ。  むいむい。

あれから10年経っていた。  ずっと「むいむい」と言って頑張ってきた。頑張れて来れた。  でも……。  もう疲れた。  僕は巣立つことに失敗した。女子の輪にも戻れない。氷原の中に僕の居場所はない。

ボールペンを握り締め、震える手で白い紙に最初の一行を書く。  ――遺書。  その文字を見たら、少しだけ気持ちが楽になった。

パキッ。  何の音? あわてて後ろを振り向いた。  白い小さな座布団の上に置いていたペン子の卵がふたつに割れていた。  まさか……雛が産まれた? いや、そんな……。  恐る恐る近づく。音は聞こえない。一歩踏み出す。卵を手に取る。のぞき込むようによく見る。  割れたところはきれいな灰色だった。

「ただの石か……」

半分の卵を投げつけようとした。何度もそうしようとして、何度も思いとどまった。どうにもならなくなった僕は立ち尽くした。やがて卵は手から落ちていった。  ペン子……。会いに来てよ。僕はもうダメだよ……。

卵は床をころころと転がり、テレビのリモコンにぶつかった。  光がともる。  スピーカーから歓声が聞こえた。  テレビからプロレスの中継が流れていた。アナウンサーが声を張り上げる。

「未冠の最強レスラー、ペンギン・ザ・ロックホッパー! 苦悶の表情を浮かべています!」

え……?  ペン子!  ペン子じゃないか!  手の甲にふさふさとした白い羽が生えているのが見えた。そうだよ。あれは間違いなくペン子だ……。

悪者そうな巨体の女レスラーがペン子の髪をつかむ。何度もパンチとキックを受け、ペン子は悶絶しながら転がり、ロープの外へ落ちていった。  大丈夫か……ペン子……。

「私はペンギンだぁぁぁッッッッ!」

耳がキーンとする。いつのまにかペン子は放送席からマイクを奪っていた。

「ペンギンは飛べない。けど、飛んで見せる! 世界最強をつかむために空を飛ぶ! そうだろ、みんな!」

大勢の観客が「むいむい!」と叫んで応える。  むいむい……?  え、ええ……。どういうこと?

「見てるかな、有賀君」

え、僕?

「私達は、世間の荒波に揉まれた。人々が吐く冷たい言葉に震えた。   でも、私達は耐えた。   私達はペンギンだ。   私達は立派なペンギンなんだ。   有賀君!   世界王者タイトルが私達の雛だ! つがいの証しだ!   これからタイトルといっしょにおいしいご飯をたくさん持って行く!   だから、死ぬな!」

いまの僕を見透かしているようだった。  そうだよね。  ペン子はずっとそうだった。  僕はペン子を助けようとしていて、ペン子に助けられていた。  だから……僕は……。ペン子……。

テレビから不思議がるアナウンサーの声が聞こえた。

「有賀君って誰でしょうね? どうですか、解説の大西さん」  「俺は知っている」

大西? 大西だ……。

「出たっ、訳知り顔の大西さん。本当のところを教えてくださいよ」  「いや、これは教えられません。たいせつな思い出なので」

大西……。お前ってやつは……。あとでたくさん抗議のメールを送ってやる。

悪役レスラーが攻撃を始めていた。パイプ椅子でペン子に襲い掛かる。小さなペンギンが頭の周りを回ってるように見えるぐらい、ペン子はふらつく。悪役レスラーはそんなペン子へ何度も執拗に蹴りを入れる。倒れ込むペン子の足首をつかむと、ぐるぐると回りだした。逃げ出す観客。手を離される。パイプ椅子が並ぶ観客席のど真ん中に、ペン子は頭から突っ込んだ。  ああっ、ペン子……。  起き上がってこないペン子を見て、悪役レスラーは勝利を確信したように雄叫びをあげた。

大勢のお客さんが「むいむい」と叫んでる。みんながペン子を応援してる。

「むいむい、むいむい!」

僕の口からもその言葉があふれだす。  涙があふれてくる。  がんばれ。がんばれペン子! がんばれぇぇぇ!

ペン子が立ち上がった。ふらつく体を椅子に手をついて支える。頭を何度も振ると、瞳に光が宿った。相手の腕を素早くつかむ。それを引くと、自身の倍もありそうな巨体を抱え上げる。言葉にならない叫びをあげながら、そのまま相手を真っ逆さまに地面へ落とした。  アナウンサーがすかさず絶叫する。

「必殺の垂直落下式ブレーンバスターが炸裂ッ! これは効いたぞ!」

ペン子がリングに這い上がる。トップロールの上に立つと、天に拳を突き上げた。

「私は飛ぶぞ! ペンギンだから!」

むいむい、むいむい!  「むいむい、むいむい!」    僕はぐちゃぐちゃと泣きながら、みんなといっしょに声援を送り続ける。  行けっ、ペン子! 勝利をつかんでくれ!

アナウンサーが大きな声を張り上げた。

「ついに出るか! 飛べないペンギンが空を飛ぶぞ! トドメのフライングボディアタックッッッ!」

ああっ!  飛んだ。飛んだよ。ペンギンが空を飛んだんだ!

<了>

※初出: カクヨム 2024年4月27日 ※ペンギンSFアンソロジー下巻に掲載